A3 / 森達也

オウム真理教の話。

ただし、オウムの異常性を描く、とかではなく、主にはオウム関連裁判の話。

異端審問のような様相を呈した裁判に疑問を投げかけ、背後にある社会病理について論じている。

一方でオウムそのものについては、個々の被告や信者たちは基本的に善良であったとの前提のもとに、

核なき集団の暴走、というような説を提唱している。

 

まず、思った以上に異端審問チックな(ように見える)裁判の経緯に驚いた。

理由が薬物かどうかは憶測に過ぎないとしても、

「麻原は明らかに正常な精神状態にないから、治療の後に裁判を再開すべきでは?」

という意見は正当なものに思える。(反論も読むべきなんだろうが)

事実上の期限くらいは設けるべきだろうけども。

 

ちなみに、筆者が「犯行当時の責任能力」を問題にして「いない」ことだけは強調しておくべきかと思う。

つまり、上記の主張は麻原を無罪に帰するものではない。

 

総じて、オウム真理教そのものについては比較的説得力を感じた。

盲目(詐病か否かはここでは議論しない)で、言葉で周囲を惑わすところのある麻原と、

被害妄想のようなものを競って麻原に吹き込む信者の相互作用により、

危険な集団へと変貌していくオウム。

そして、一人の信者の事故死が最後の一押しとなる・・・

みたいな感じだったと思う。事実はどうあれ興味深かった。

 

ただし、一連の事件が社会に与えた影響については、過大評価していると感じる。

私は事件当時は小学生、前後の変化を肌で感じていないからかもしれないけど。

少なくとも、司法制度絡みの「一度の(異端審問的な)例外を許せば必ずそれは広がっていく」という論や、

事件を契機に日本社会は非寛容の方向に加速していったという論には、

私は同意できない。

 

むしろ従来からある日本文化の一面が、情報化社会において増幅されることで、

非寛容や自己責任論に強く出ているのではないかと思う。

ただしこの本とは関係ないことなので、それはまたの機会に。

近代日本の企業者と経営組織 / 安岡重明

ものごとは多面的なんだなあ。と思いました。

 

例えば、近江商人。文字通り近江あたりにルーツを持つ商人のことで、商才のある人が多かった。

伊庭貞剛(第二代住友総理事)は、西川吉輔(国学者平田篤胤没後の門人)の薫陶をうけ、

近江商人は武士の魂(=利益追求が至上でない)と開拓者魂を持たねばならぬと考え、

大阪商業高校の校長を無給で務めるなど積極的な社会活動を行った。

 

一方で、江戸時代からの近江商人システムには近代化にあたって問題も多かった。

合議制による共同経営(大事業における資金調達、主人や「支店長」の専横抑止)と、

他国の店舗での近江人の起用(遠隔地における経営の信頼性向上)により、

多店舗化・多業種化しつつ家業の永続性を維持していた。

家と事業が一体化している間は合理的だが、近代化を考えるなら本拠地・家業の限定は枷でしかない。

現在の伊藤忠商事などは、早くに雇用形態の転換などによって近代化し、事業拡大に適応していった。

 

現在、社外取締役の増加などによる経営の透明性確保が喫緊の課題になっている、と言っている人もいる。

経営の合理化自体はたぶん本当に必要なんだろう。

ただ、結局何が目的で何をするべきなの?という視点があってもいいのかなーなんて、素人ながらに思ったりする。

ありていに言うと、増やせばいいというもんでもないんだろうなーって。

輿論と世論―日本的民意の系譜学 / 佐藤 卓己

輿論public opinionと世論popular sentimentsは本来全く違うもの。

前者がよろん、後者がせろんと読まれていたのに、

字の制限で前者が消滅し、結果として世論=よろんと読むようになった。

 

輿論=冷静な意見と世論=感情的な気分の区別が明確にされなくなったことが、

移り気な「ヨロン」の暴走につながったのではないか?

翻って、今こそ両者を分けて書くことから始めるべきなのではないか?

 

というようなお話でした。

 

実際には言語論というより、メディア論としての側面が強い。

例えば、ショー的政治の先駆者としての中曽根康弘

(1985/1/22 第九回自民党全国研修会より)
「政治には感激が必要だ。国民と一緒に「政治目標」をご本尊にしたお神輿を担いで、一緒に汗を流してやるこの感激の分かち合い。これが政治なのだと私は思っている。そういう政治こそがテンポとリズムの合った政治である。」
で、お神輿=輿論、テンポとリズム=世論だと筆者は説明している。

 

個人的には、言葉の使い方そのものが大きな意味を持つかは疑問に思っている。

ただ、本書中に

「世論が「ヨロン」である限り、世論の暴走、あるいはブレーキを欠いた民主主義ーポピュリズムと呼び換えてもよいーを正しく批判する枠組みを私たちは持てないのである。」

とあるように、

冷静な議論と感情論を意識的に分けて考えようとすることは大切だろう。

 

筆者も言うように、実際には理性と感情は不可分だとしても、

この考えは理性か?感情か?と問いかける姿勢こそ、良識を育てるのではないだろうか。

方法序説 / デカルト

科学に携わる者、一度は読んでおくべし。…と聞いてからだいぶ経ちました。

今がチャンスだと思って読んでみました。

固定観念はとりあえず全て捨て去って大事なものだけ残そうとか、簡単に言うねえ。

 

「われ思う、故にわれあり」

とは、非常に有名なフレーズ。有名すぎて、一人歩きしているかもしれない。

これは以下のような論法を説明するもの(だと思う)。

 

この世の全てが偽りだと考えてみる。

しかし、そう考えてみたところで、「今私が「全てが偽りだ」と思っていること」は否定しようがない。

ということは、「私」の中には真なるものが存在する。

 

ちなみに、この後

「不完全な私の中に真なるものが存在する。一方、神は全てが完全なる存在であり、神を分割することはできない。不完全な私の中に最初から真なるものがあったなら、その性質上他のすべての真なるものを取り出せるはずだが、実際にはそうではない。よって真なるものは神の恩寵であり、神は存在する」

みたいなロジックが続きます。

 

それはさておき、この本のより面白いところはデカルトの学問に対する姿勢だと思う。

 

まず、学問を学ぶにあたる、行動指針。即ち、

①明証的に真ではない全てを真とは認めない。つまり、厳密であること。

②問題を必要なだけ細かく分割すること。還元主義、とはちょっと違うのかな?

③単純から複雑へ、順を追って考えること。

④見落としがないと確信できるよう、しっかり対象を見ること。

耳が痛いですね。言うは易く行うは難し。頑張ります。

 

次に、学問追究の前に、見聞を広めた際の行動指針。

①法と信仰とを守り、極端な意見に走らないこと。

②中途半端にブレないこと。例えば、耳を傾けると決めた意見は最後まで聞く。

③どうにもならないことではなく、己に打ち勝つよう努めること。

④①-③を基に、最良だと思える仕事を選ぶこと。

例えば、世界の秩序を変えよう!というのが悪いことだとは思わないけど、こと見聞を広めようとするなら、どれも大事かと思います。

就活の時とか、役に立つかも?

 

偉大な哲学者の考えていたことが、(気のせいかもしれないが)少しだけ分かったような気にさせられる一冊でした。

孤独の愉しみ方―森の生活者ソローの叡智 / ヘンリー・ディヴィッド・ソロー

「孤独は、最も付き合いやすい友達である。それなのに、孤独はたいてい嫌われる。自分の孤独に手を差し伸べよう。」

 

本書は、150年くらい?前に、森の中でほぼ自給自足・限られた付き合いの中だけで生活してたという著者の言葉をまとめたもの、らしいです。

 

究極のぼっちですね。

 

労働は自分が食うぶんだけであとは思索にあてればいいとか、ニュースは原則を知ってれば"new"である必要はないとか。

分からなくはないけど、なかなかできないよねー。

 

でも、

Thou shouldst eat to live; not live to eat.

(生きるために食べよ。食べるために生きるな。)

なんて言葉もあるように、結局何が自分にとって大事なの?っていうのは常に考えないといけませんね。

 

まさにそういう価値観みたいなとこで悩んで、半ぼっち化しているアルタイルには沁みる本でした。

外交〈上〉 / ヘンリー・A. キッシンジャー

一言でいうと、長い。めっちゃ長い。

上巻は17世紀くらい~冷戦開始の外交史を、

ニクソン政権下の大統領補佐官など長年外交に関わってきた筆者が描いたもの。

ちなみに96年の本なので、下巻は冷戦終結まで。

 

基本的には、理想主義と現実主義という軸で読めばいいと思う。

ただし、善悪を論ずる対象とか、二項対立とかではない。

 

例えば、一般に共産主義は理想主義的に考えられることが多いように思う。

しかし、

『(ヒトラーと)同様にスターリンも誇大妄想狂であったが、自分は歴史的真実に使える者と考えていた…スターリンは確かに怪物であった。しかし国際関係の処理にあたっては、彼はこのうえなく現実的であり、我慢強く…』

このように、スターリンの現実主義者としての側面は何度も本著中で描かれている。

要するに、「目的のためなら手段は択ばない」わけだ。

 

恐らくは、理想と現実、どちらかを追求するだけではいけないのだろう。

世論を誘導して第二次大戦にアメリカを参戦させたフランクリン・ルーズベルトのように、

『偉大な指導者は、彼の洞察力と一般の常識…教育者でなければならない…ついてこられるようにするために、孤独で先に歩いていく意思がなければならない』

のだと。

 

他にも示唆に富む記述はたくさんある。

『政治家たちはいつも、行動を起こす余地がまだ大きい時に限って、状況がよくわからないというジレンマに直面するものである。』

外交政策は、実際の力関係を無視して、相手の意図がどのようなものかという読みに頼るとき、砂上の楼閣になってしまうのである』

『民主主義の世論は、失敗を決して許さない。たとえ失敗の原因が目先の彼らの期待を実現することであったとしても。』

など。

 

コメントとしては…ゲームとしては面白そうだよね。実際苦労は死ぬほど多いんだろうけどさ。

うまくまとまらないからそのうち修正するかもしれません。

公共哲学 : 政治における道徳を考える / マイケル・サンデル

ちょっと前に読んだ本だけど、興が乗ったので。

記憶違い等ご容赦ください。

 

「政治における道徳とは、個人の選択の自由に帰結されるべきものではなく、皆で考えるべきものである」

というのがサンデルの主張だったように思う。

 

例えば妊娠中絶に関する法案(容認にせよ禁止にせよ。サンデルは多分容認派)について、

「中絶するかどうかは母親のプライバシーの問題だから、それを法制化すべきではない」

という議論がある。

しかし、本来プライバシーとは「選択の自由」というより、

「どんな私生活を送るかを他人に暴かれない」というものであった。

 

さらに、道徳が法制度に反映されないことはありえない。

なぜなら、「道徳は法制度に反映されるべきではない」というのもまた、道徳の一つなのだから…

 

そして、道徳を考える場とはコミュニティである。

経済活動の膨張によりコミュニティが破壊されている今、我々は戦わねばならない。

(例えば、学校のテレビに流れる消費者向け広告など。)

 

ものすごくはしょったけど、こんな感じかと。

個人的には、確かに価値観を法制度に反映させることは大事だと思う。

 

例えば、「民主主義への~」のエントリで述べた資本課税(細かい話は後日)。

これは垂直的公平、つまり

「確かにそれはあなたの財産だけど、ため込み過ぎだから他の人に配るからね」

という考え方に立脚している。

言い換えると、「貧富の差をどの程度許容できるか、できないか?」という価値観を反映している。

 

ただし、現実的には議論が紛糾しすぎないよう、ある程度の「聖域」はあっていいと思う。

例えば、医療関連産業を集積させたい自治体が、医療倫理絡みのセンシティブな点に触れないことは間違っていないと思う。

言い換えると、目的は「ある程度」手段を正当化する。

 

という「ご都合主義者」なアルタイルでしたとさ。