暗夜行路 / 志賀直哉
『或る処で諦めることで平安を得たくない。諦めず、捨てず、何時までも追求し、其上で本統の平安と満足とを得たい。本統に不死の仕事を仕た人には死はない。』
著者唯一の長編小説。悩み多き人生を送る主人公が、大自然の中で「許す心」を得るまでを描く。
前編を読んでた頃は(歪んだ)母への愛がテーマかと思ってたので、後半の展開には引き込まれました。
(でも、後書きでは「絵巻物風」とか言ってたけど、あの人格変化が短期間で起きるのは時系列に頓着してなかっただけなんじゃないかなあ。)
さて、感想としては主人公「時任謙作」にだけ触れたいと思います。
繰り返しになるけど、まず感じたのは歪んだ愛。まあこれは出自が絡んでいるということでしょう。
次に、感情の波の激しさと、理性で以てそれを御したいとする本人の苦悩。
半分以上は本人のあずかり知らぬ処で余計なことをする周囲の人間のせいだけど・・・
そして、小説家としての空想癖や、大きな物事について考える傾向。
冒頭の一節は、前編からこれに関連する部分を切り取ったものです。
主人公にフォーカスしたのは理由があります。
それは、私自身との共通項。
歪んだ愛・・・はともかくとして(笑)、
現実世界でどうこうということは今は多分ない(現実とリンクしたネットでは?黙秘権を行使します)けれど、
時に自分の手を離れて飛んでゆくかのような感情。
そして、その価値を否定する合理主義的気質。
大きなものになりたい、そして大きなものについて考えたいという欲求。
これについては、一つ前のエントリもそうですが、このブログをご覧の方には周知の事実かと思います。笑
それ「だけ」に集中しきれていないところもそうかな?
さて、では共通項を感じる者として、同様な心境を得たいか?
この質問には、必ずしもイエスとは言い切れない。
寛容の精神は大事だと思うけれど、永遠を感じたら歩みを止めてしまう気もする。
今のところは、宗教よりも科学に答えを求めたいと思います。
今後に向けて
節目の年でもあるので、
自分メモも兼ねて抱負的なものを表明したいと思います。
今年何をやりたいかというより、今後どうなりたいかという内容です。
後で違うなと思ったら適宜修正するかもです。
1.つまらない大人にならないこと
「普通が一番」「食わなきゃならない」
私が一番嫌いな言葉を並べてみました。
何が好きかは変わっていくけど、何が嫌いかってそうそう変わらない。
少なくとも自分はそう。
なので、自分が嫌いなものにならないというのを最大の行動指針にしようと思います。
子供の頃から、
「普通に進学して、普通に就職して、普通に家庭を持って、そして普通に死んでいく」
って想像が身震いするほど嫌だった。
私が私であるために、「生活することよりも優先して」私が誇れる私でいたいと思う。
これが最大の抱負で、後はおまけ。
2.定期的に初志を思い出すこと
「結局、何をしたかったんだっけ?」
ここ数年色々悩んだ最大の原因は、この問いの答えがぼやけていたことです。
色々あると思うけど、迷ったら基本に立ち返りたい。
3.自分に必要な気遣いはしつつも、やらなくてもいいことならやらないこと
コミュニケーションって大事だと感じます。
ただ、それ自身は目的ではない。手段です。
逆に、手段として必要なことはやりたくなくても積極的にやっていきたい。
少なくて済むにこしたことはないけれど。
さて、先の話はこれぐらいにして、ぼちぼち目の前の問題も片づけますか。
心の影 意識をめぐる未知の科学を探る / ロジャー・ペンローズ
あけましておめでとうございます。ブログは細々とやっていきたいと思います。
年始なのでちょっと変わり種というか、将来の展望みたいなものを絡めてみたいと思います。
筆者は高名な物理学者で、「事象の地平面」の存在を提唱したりもしたそうです(wikipediaより)。
本著は二部作で、一部の論旨は「現行のAIに原理的に心は生まれない」というもの。
より正確には多段階の主張であり、
一番大きな主張は
「計算からなるアルゴリズムは一部の数学的概念や証明(特に「計算が止まらない」性質を持つもの、あるいは「自らのメカニズム」)を理解できない」
というもの。
で、「理解」、ひいては計算不可能性というのは心に不可欠なものであるから、
AI、というより計算機に心は生まれないってことだと思います。
二部では、
「計算不可能な心を論ずるためには、計算不可能性を対象とした新たな物理学が必要だ」といった議論が登場。
具体的には、ニューロン内部の微小管内外の微小環境の量子状態が結びつき、
大規模な量子コヒーレンスが起きることが意識の発生に必要なんではないかとのこと。
ニューロンそのものは、それを増幅する装置みたいなものだとの主張でした。
反事実条件(「起きなかった可能性」)の影響を受けることが「わたし」の発生に関わると考えると、
事実はどうあれ仮説としてはロマンを感じますね。
ただし、著者も指摘しているように、
「ではなぜ、「わたし」が発生するのか」という疑問の答えにはならない。
意識発生について、
この理論がwhyでInformation Integration Theory(後日紹介)がhowだとの記述も見つけたけど、
私は両者ともhowだと思います。
私との関連としては、元々広義ではこの分野の人間を目指していました。
で、数学や物理は苦手だったので、実験をやってたんですが、
理論の重要性があるのではと感じる(私はこういう時信じるのは直感ってタイプです)とともに、
働いて必要なスキルを身につけながら理論と接することのできる環境を求め始めたのが去年一年の後半でした。
同時に、高校の数学や物理が解けることは、理論を証明できることにはつながるかもしれないけど、
必ずしも理論を理解できることとイコールではないとも思うように。
意識のメカニズムを知るというのは私にとっては一番大きな、
そして実現不可能ではないレベルの夢だと思っています。
今はまだ足りないものばかりだけど、また、いずれ。
あまり具体的なことを書くのは躊躇われたのでぼかしましたが、
初志を忘れないために、文章として残したかったので投稿します。
意識高い系だと思うのはできたら勘弁してください(笑)
いまさら翼といわれても / 米澤 穂信
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああえるたそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
(以下ぼかして書くので完全なネタバレというほどではないですが、読もうと思ってる&事前情報は欠片も入れたくない方はブラウザバック。小説なので一応)
一応説明しておくと、古典部シリーズというシリーズものの最新作です。
「氷菓」というタイトルでアニメ化もされており、私も大好きです。
私も大好きです。(大事なことなので)
いや、正直これはだいぶ予想外でしたね。
えるたその家にまつわる話は奉太郎もだいぶ壁に感じてたので、
ありがちな展開として例えば見合いの話があるとか、そういうのは想像してました。
今回の話はいわば予想の展開の逆。一体何があったんでしょうね?
個人的な予想としては、メタ的になるのですが、
このシリーズは一貫して最終的に特定の登場人物の内面に至る話になっている。
えると氷菓事件、奉太郎と女帝事件、里志・麻耶花と十文字事件みたいなね。
別に一(あるいは二)対一対応ってわけでもないですけどね。
というわけで、えるパパの登場が今後あるんじゃないかと。
(ママかもしれないけど、まあ主犯?は当主でしょう。実際話をしたみたいだし)
で、親心みたいなものが語られるんじゃないでしょうか。
ちなみにタイトルにも関わる「自由」の話ですが、
私は(ここにたどり着くような人々はご存知かもしれませんが)だいぶ自由至上主義みたいなとこがあります。
なので、正直えるの心情が理解できるとは言えない。
ただ人生の中で、
それまでプレイしていた(と思っていた)ゲームのルールが急に変わった(ことに気づいた)時に、
「はて、どうしたいと思っていたんだっけ?」と立ち止まってしまった経験はあります。
私は物理的な環境変化には耐性がある方だと思いますが、
自分の内面に深くかかわる一部が急に変わる(ことに気づく)のはなかなか受け入れがたいもの。
結果的によくわからない道を歩むことになりましたが、
それ自身は必要なことだったと最近になって思うようになりました。
フィクションの中ではあるけれど、
えるにも「あれはいい経験だった」と笑って振り返る日がくるといいですね。
A3 / 森達也
オウム真理教の話。
ただし、オウムの異常性を描く、とかではなく、主にはオウム関連裁判の話。
異端審問のような様相を呈した裁判に疑問を投げかけ、背後にある社会病理について論じている。
一方でオウムそのものについては、個々の被告や信者たちは基本的に善良であったとの前提のもとに、
核なき集団の暴走、というような説を提唱している。
まず、思った以上に異端審問チックな(ように見える)裁判の経緯に驚いた。
理由が薬物かどうかは憶測に過ぎないとしても、
「麻原は明らかに正常な精神状態にないから、治療の後に裁判を再開すべきでは?」
という意見は正当なものに思える。(反論も読むべきなんだろうが)
事実上の期限くらいは設けるべきだろうけども。
ちなみに、筆者が「犯行当時の責任能力」を問題にして「いない」ことだけは強調しておくべきかと思う。
つまり、上記の主張は麻原を無罪に帰するものではない。
総じて、オウム真理教そのものについては比較的説得力を感じた。
盲目(詐病か否かはここでは議論しない)で、言葉で周囲を惑わすところのある麻原と、
被害妄想のようなものを競って麻原に吹き込む信者の相互作用により、
危険な集団へと変貌していくオウム。
そして、一人の信者の事故死が最後の一押しとなる・・・
みたいな感じだったと思う。事実はどうあれ興味深かった。
ただし、一連の事件が社会に与えた影響については、過大評価していると感じる。
私は事件当時は小学生、前後の変化を肌で感じていないからかもしれないけど。
少なくとも、司法制度絡みの「一度の(異端審問的な)例外を許せば必ずそれは広がっていく」という論や、
事件を契機に日本社会は非寛容の方向に加速していったという論には、
私は同意できない。
むしろ従来からある日本文化の一面が、情報化社会において増幅されることで、
非寛容や自己責任論に強く出ているのではないかと思う。
ただしこの本とは関係ないことなので、それはまたの機会に。
近代日本の企業者と経営組織 / 安岡重明
ものごとは多面的なんだなあ。と思いました。
例えば、近江商人。文字通り近江あたりにルーツを持つ商人のことで、商才のある人が多かった。
伊庭貞剛(第二代住友総理事)は、西川吉輔(国学者。平田篤胤没後の門人)の薫陶をうけ、
近江商人は武士の魂(=利益追求が至上でない)と開拓者魂を持たねばならぬと考え、
大阪商業高校の校長を無給で務めるなど積極的な社会活動を行った。
一方で、江戸時代からの近江商人システムには近代化にあたって問題も多かった。
合議制による共同経営(大事業における資金調達、主人や「支店長」の専横抑止)と、
他国の店舗での近江人の起用(遠隔地における経営の信頼性向上)により、
多店舗化・多業種化しつつ家業の永続性を維持していた。
家と事業が一体化している間は合理的だが、近代化を考えるなら本拠地・家業の限定は枷でしかない。
現在の伊藤忠商事などは、早くに雇用形態の転換などによって近代化し、事業拡大に適応していった。
現在、社外取締役の増加などによる経営の透明性確保が喫緊の課題になっている、と言っている人もいる。
経営の合理化自体はたぶん本当に必要なんだろう。
ただ、結局何が目的で何をするべきなの?という視点があってもいいのかなーなんて、素人ながらに思ったりする。
ありていに言うと、増やせばいいというもんでもないんだろうなーって。
輿論と世論―日本的民意の系譜学 / 佐藤 卓己
輿論public opinionと世論popular sentimentsは本来全く違うもの。
前者がよろん、後者がせろんと読まれていたのに、
字の制限で前者が消滅し、結果として世論=よろんと読むようになった。
輿論=冷静な意見と世論=感情的な気分の区別が明確にされなくなったことが、
移り気な「ヨロン」の暴走につながったのではないか?
翻って、今こそ両者を分けて書くことから始めるべきなのではないか?
というようなお話でした。
実際には言語論というより、メディア論としての側面が強い。
例えば、ショー的政治の先駆者としての中曽根康弘。
(1985/1/22 第九回自民党全国研修会より)
「政治には感激が必要だ。国民と一緒に「政治目標」をご本尊にしたお神輿を担いで、一緒に汗を流してやるこの感激の分かち合い。これが政治なのだと私は思っている。そういう政治こそがテンポとリズムの合った政治である。」
で、お神輿=輿論、テンポとリズム=世論だと筆者は説明している。
個人的には、言葉の使い方そのものが大きな意味を持つかは疑問に思っている。
ただ、本書中に
「世論が「ヨロン」である限り、世論の暴走、あるいはブレーキを欠いた民主主義ーポピュリズムと呼び換えてもよいーを正しく批判する枠組みを私たちは持てないのである。」
とあるように、
冷静な議論と感情論を意識的に分けて考えようとすることは大切だろう。
筆者も言うように、実際には理性と感情は不可分だとしても、
この考えは理性か?感情か?と問いかける姿勢こそ、良識を育てるのではないだろうか。