シグナル&ノイズ 天才データアナリストの「予測学」 / ネイト・シルバー
どうでもいいけど、この手のダサい副題はウケがいいのかな。
まあ原著の副題をそのまま訳して、
「なぜこれほど多くの予測は失敗し…いくつかはうまくいくのか」
とかするのもイマイチだと思うけど。
著者は統計学、特に様々な分野のデータを基にした将来予測の専門家。
マネー・ボールの元になった会社の予測モデルを作ったり、
政治予測のブログを作ってて、2008年の大統領選の結果をほぼ100%的中させたり。
ただし、上記の原著の副題(原文:Why so many predictions fail - but Some Don't)で分かるように、
華々しい予測の歴史を綴った書ではない。
むしろ逆に、
自信過剰バイアスが経済予測の信頼性を低いものにしていること、
特定の病気の注目度増大による自己成就予言的な症例数の増大などなど、
現実のノイズにまみれたデータからシグナルだけを見つけ出し、
それを予測の「成功」に結びつけることがいかに難しいかに関する話の方が多い。
では、様々な分野において、予測の精度を上げるためにはどうすべきか?
答えは単純(ただし簡単ではない)、
①市場、経験、知識等から現状に関する見積を立てること
②なるべく沢山予測を立て、適宜修正すること
の二つ。
これは、現代統計学の基盤たるベイズ推定、その事前確率と条件(文脈)による修正という考え方に対応している。
要するに、一定のものの見方(バイアス)を持ちつつも囚われすぎず、
(バイアスを「持たない」ことはありえない。それは事前確率がないのと等価だから)
予測の数をこなして適宜修正していきましょうという話。
データはあくまで材料、モデルは道具でしかなく、
文脈の中で判断しないと「フットボールの結果と株価に相関がある」みたいな意味不明な結論を信じちゃいますよ…
ってのは確かにそうなんだろうけど、言うは易く行うは難しなんだろうとも思います。
あと、例えば政治は「今後どうなるか」というより「今後どうしたいか、どうあるべきか」を考えるものなので、
必ずしも予測がとても重要な要素かはよく分からない。
ただ、ベイズ的にものを考えるというのは、予測に限らず検討すべき考え方かと。
本文中の例を引き合いに出すと、スポーツで贔屓チームが連敗している時に、
「連敗しているのは構造的な欠陥によるものだ」と考えるか、
「連敗しているが、主力の離脱がある中で内容は悪くない(文脈)。したがって今後盛り返す」と考えるかとかね。
当たるか外れるかはともかく、論理的思考のトレーニングとしてはちょうどいいかと思います。
人口と日本経済 ー長寿、イノベーション、経済成長 / 吉川洋
人口減少ペシミズムはおかしい。
財政を圧迫することは間違いないが、GDPと人口成長率に相関があるわけではない。
経済を成長させるのはむしろ労働生産性であり、
その向上の主たる要因は資本蓄積とプロダクトイノベーションである。
(ちなみに、長時間労働云々はさておき、先進国において生産性=やる気ではない)
「長寿というぜいたく」を皆が享受できるようになったのは経済成長によるものだし、
イノベーションは供給側だけではなく、需要側の事情とも密接に関連する。
言い換えると、必要は発明の母である。
問題は供給側が需要に応えられるかだが、
残念ながら今のところ企業こそが純貯蓄主体となっている。
日本の経済の将来は、企業が人口減少ペシミズムを克服できるかにかかっている。
みたいなお話だったと思います。
先行きが暗いかいうほどでもないかって話は置いといて、
(今ちょうど「経済の予測は当たらない」という本を読んでいます笑)
何とかなると楽天的に思わないと進歩はないってのはそうだと思うんですよね。
感想とも呼べない感じだけど、
本著にも引用されていたケインズの言葉で〆たいと思います。
"Most, probably, of our decisions to do something positive, the full consequences of which will be drawn out over many days to come, can only be taken as the result of animal spirits – a spontaneous urge to action rather than inaction, and not as the outcome of a weighted average of quantitative benefits multiplied by quantitative probabilities." (161-162) – J.M.Keynes, General Theory.
ではまた。土日はできるだけ更新したいと思ってます。思うだけかもしれないけど。
「民主主義」に関する政治素人の所感
予告通り、本投稿では最近の政治的動向について感想を述べたいと思います。
できるだけ客観的にと心がけていますが、素人の感想なので話半分程度に。
投稿にあたり、
現代民主主義における政党の社会学 / ロベルト・ミヘルス
自由からの逃走 / エーリッヒ・フロム [著] ; 日高六郎訳
を参考にしました。
まず参考図書について簡単に補足。
現代民主主義における政党の社会学
『選出された指導者は、その選出が民主的な手続きにしたがっておこなわれたということから、自分を大衆意志の表現とみなし、そのようなものとして自分の意志への服従を要求できる正当な権利を世襲的指導者よりもずっと多くもっている。』
純粋に民主主義的で、寡頭制的傾向のない集団など存在しない。
政党を主な分析対象にしていますが、これが本著における筆者の主な主張だと思います。
例えば上にあるように、間接民主主義における強力な代表の選出の必要性は必然的にその代表による支配を生む。かといって、一定以上の大規模集団における直接民主制は現実的ではない。
また、組織が大きくなるほど運営における官僚制度の必要性が増すし、
リーダーに演説の能力や組織運営における器用さが求められることから、職業的指導者が発達する。
そして、「民衆の代表」としてのリーダーの性質が薄れていく(特に、社会主義の支持母体たる労働者からは程遠い存在になる)。
などなど。
元々社会主義主義に傾倒していたが、非民主主義的な党の現状に失望して批判に回ったという筆者の経歴から、
過度に悲観的である感はなきにしもあらずですが、お勧めの一冊です。
特に、こんな時代では。
自由からの逃走
『中世末期以降のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、個人の完全な解放史である…多くの点で個人は成長し、精神的にも感情的にも発達し、かつてなかったほど文化的所産に参加している。しかし他面「…からの自由」と「…への自由」とのズレもまた拡大した。どのような絆からも自由であるということと、自由や個性を積極的に実現する可能性をもっていないということとのズレの結果、ヨーロッパでは、自由から新しい絆への、あるいはすくなくとも完全な無関心への、恐るべき逃走が起った。』
初版発行が1941年。当時のナチスドイツの隆盛を念頭に、「自由になる」ことの意義と難しさについて、歴史的経緯を絡めながら述べている。
手元に資料がないので、上の文を参考に簡潔に述べます。
まず、中世以降の「…からの自由」とは、資本主義の発達に伴い、階級制度など従来の「絆」から解放されたこと。
次に、「…への自由」とは、目的そのものとしての自由。
これを踏まえて引用文を私の言葉と解釈で言い換えると、
「既得権たる○○を打倒し、行き詰った現状から自由になるのだ!」という自由の形は、
現代の資本主義の発達に伴い実現されてきた。
が同時に、「なにものにも囚われず、独り自由に立つこと」は孤独への恐怖を引き起こし、結果として新たな支配者を求める潮流(=ファシズム)が生まれた。
ということだと思います、たぶん。
ルターの支配への憧れと資本主義の奇妙な関係、思想としてのナチズムの「大いなるもの」への傾倒などその他盛りだくさんの書ですが、話がそれるのでこの辺で。
まとめ:民主主義とポピュリズム
これらの書を踏まえて、最近の政治的トレンドについて思うところを述べたいと思います。
私は政治については素人です。正確な分析なんて望むべくもない。
でも、自分なりに世界の見方をある程度定めて、行動指針を立てることはできると思う。
本来読むべきデータサイエンスなんかの書籍をほっぽり出して政治や経済の本を読んでたのは、これが目的でした。
「なぜそうなっているのか?で、どうすべきなのか?」
少なくとも、自分の「思うところ」を定めてから現実に向き合いたかった。
今後はなかなか時間もとれないだろうから。
さて、思うところ。
①歴史は繰り返す ~諸行無常の響きあり~
まず、ポピュリズムは「民主主義の勝利」ではないと思います。
広がる貧富の差にあえぐ人々、綺麗事ではない何かを求める人々の声が反映されているのは間違いない。
解くべき問題は今や正しく設定されたのだろう。
でも書籍等で見る限り、歴史上のうねりではあったとしても、前例を逸脱するものではないと思います。
全く同じことが起きるのではなくとも、歴史は繰り返す。
②現状の打破 ~民主主義 v.s. 資本主義~
一方で、
「欧米型資本主義には限界がある、パラダイムシフトが起きるかもしれない」
という風潮そのものは悪いことばかりでもないでしょう。
外野としてできるのは、表面上のextremismに惑わされないこと。
トランプ政権が(主に軍事の絡む)外交的には比較的現実主義路線であることのように、
言っていることとやっていることの違いには冷静であること。
次に、外野も内野も「ではどうすべきか」を考え続けること。
現実とのすり合わせも大事だろうし、あえて理想論を押し通すことも大事でしょう。
みんなの智恵を合わせれば、案外「みんなで貧乏になる」以外の選択肢だって見つかるかもしれない。
経済的な部分はともかく、ポピュリズムはファシズムの再来かと言われると、それはそれで違うんじゃないかと思います。
③今できること ~非欧米圏のアイデンティティ~
「自由を求め現状を打破してきた闘争の歴史」
…この感覚は多分日本人の大半にはないと思います。少なくとも私にはない。
善悪は置いといて、自由や平等を求める性向があるからこそ、
欧米で急進的勢力が発達しやすいのではないかと思います。
その発達を新たな寡頭制の誕生と見るか、自由からの逃走と見るか、それとも民主的革命と見るかはさておき。
翻って、「それってそんなに大事なことなの?」と一歩引いた眼で見ることができるのは非欧米圏の人間なんじゃないかと思います。
せっかくの情報化社会なんだから、欧米だけではなく、「みんな」で考えない手はない。
④理想の未来なんて
以上の理性的な意見(と自分では思っているもの)はさておき・・・
孤立主義は絶対に理想の解ではない!
これだけは絶対に譲るつもりはありません。自分にできることは少なくとも、何を選ばないか、何に背を向けるかぐらいは選ぶことができる。
私の立場で何ができるかは分からないけど、この記事に書いたことは忘れないようにしたいと思います。
いんぐりっしゅこみゅにけーしょん
アメリカついでに、日本人がいない環境で英語について思ったこと。
①スピーキング
しゃべるのはやっぱり慣れてないと難しい。リーディング・ライティングに比べて語彙が減る。
とはいっても、元々日本語でそんなしゃべるかっていうと全くそんなことはない、
から言語が変わってもキャラは多分あまり変わってない。
パーティで全然しゃべれないのは元々である(笑)
ただし、専門のディスカッション能力はちょっと錆びつきすぎだなあ。
ポイントは伝わったと思うし、フィールドを変えるからまあいいんだけど。
感触が人によって違うのは多分日本人相手でも同じだな。
②リスニング
行きの機長(=スピードへの適応前。帰りは余裕)以外はほぼ完ぺきに聴き取れた。
仮に向こうの大学院の授業を取っても問題なくやっていけるだろう。
まあインタラクティブなのには慣れないといかんけど。
ただし、プライベートで会話した人々は(多分)分かりやすく話してくれてるし、
それ以外は「共通言語」があったことに留意が必要。
chattingに普通に加われるかどうかは分からんなあ。