心の影 意識をめぐる未知の科学を探る / ロジャー・ペンローズ

あけましておめでとうございます。ブログは細々とやっていきたいと思います。

 

年始なのでちょっと変わり種というか、将来の展望みたいなものを絡めてみたいと思います。

筆者は高名な物理学者で、「事象の地平面」の存在を提唱したりもしたそうです(wikipediaより)。

 

本著は二部作で、一部の論旨は「現行のAIに原理的に心は生まれない」というもの。

より正確には多段階の主張であり、

一番大きな主張は

「計算からなるアルゴリズムは一部の数学的概念や証明(特に「計算が止まらない」性質を持つもの、あるいは「自らのメカニズム」)を理解できない」

というもの。

で、「理解」、ひいては計算不可能性というのは心に不可欠なものであるから、

AI、というより計算機に心は生まれないってことだと思います。

 

二部では、

「計算不可能な心を論ずるためには、計算不可能性を対象とした新たな物理学が必要だ」といった議論が登場。

具体的には、ニューロン内部の微小管内外の微小環境の量子状態が結びつき、

大規模な量子コヒーレンスが起きることが意識の発生に必要なんではないかとのこと。

ニューロンそのものは、それを増幅する装置みたいなものだとの主張でした。

 

反事実条件(「起きなかった可能性」)の影響を受けることが「わたし」の発生に関わると考えると、

事実はどうあれ仮説としてはロマンを感じますね。

ただし、著者も指摘しているように、

「ではなぜ、「わたし」が発生するのか」という疑問の答えにはならない。

 

意識発生について、

この理論がwhyでInformation Integration Theory(後日紹介)がhowだとの記述も見つけたけど、

私は両者ともhowだと思います。

 

私との関連としては、元々広義ではこの分野の人間を目指していました。

で、数学や物理は苦手だったので、実験をやってたんですが、

理論の重要性があるのではと感じる(私はこういう時信じるのは直感ってタイプです)とともに、

働いて必要なスキルを身につけながら理論と接することのできる環境を求め始めたのが去年一年の後半でした。

同時に、高校の数学や物理が解けることは、理論を証明できることにはつながるかもしれないけど、

必ずしも理論を理解できることとイコールではないとも思うように。

 

意識のメカニズムを知るというのは私にとっては一番大きな、

そして実現不可能ではないレベルの夢だと思っています。

今はまだ足りないものばかりだけど、また、いずれ。

 

あまり具体的なことを書くのは躊躇われたのでぼかしましたが、

初志を忘れないために、文章として残したかったので投稿します。

 

意識高い系だと思うのはできたら勘弁してください(笑)

いまさら翼といわれても / 米澤 穂信

あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああえるたそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

 

(以下ぼかして書くので完全なネタバレというほどではないですが、読もうと思ってる&事前情報は欠片も入れたくない方はブラウザバック。小説なので一応)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一応説明しておくと、古典部シリーズというシリーズものの最新作です。

氷菓」というタイトルでアニメ化もされており、私も大好きです。

 

私も大好きです。(大事なことなので)

 

いや、正直これはだいぶ予想外でしたね。

えるたその家にまつわる話は奉太郎もだいぶ壁に感じてたので、

ありがちな展開として例えば見合いの話があるとか、そういうのは想像してました。

 

今回の話はいわば予想の展開の逆。一体何があったんでしょうね?

 

個人的な予想としては、メタ的になるのですが、

このシリーズは一貫して最終的に特定の登場人物の内面に至る話になっている。

えると氷菓事件、奉太郎と女帝事件、里志・麻耶花と十文字事件みたいなね。

別に一(あるいは二)対一対応ってわけでもないですけどね。

 

というわけで、えるパパの登場が今後あるんじゃないかと。

(ママかもしれないけど、まあ主犯?は当主でしょう。実際話をしたみたいだし)

で、親心みたいなものが語られるんじゃないでしょうか。

 

ちなみにタイトルにも関わる「自由」の話ですが、

私は(ここにたどり着くような人々はご存知かもしれませんが)だいぶ自由至上主義みたいなとこがあります。

なので、正直えるの心情が理解できるとは言えない。

 

ただ人生の中で、

それまでプレイしていた(と思っていた)ゲームのルールが急に変わった(ことに気づいた)時に、

「はて、どうしたいと思っていたんだっけ?」と立ち止まってしまった経験はあります。

 

私は物理的な環境変化には耐性がある方だと思いますが、

自分の内面に深くかかわる一部が急に変わる(ことに気づく)のはなかなか受け入れがたいもの。

 

結果的によくわからない道を歩むことになりましたが、

それ自身は必要なことだったと最近になって思うようになりました。

 

フィクションの中ではあるけれど、

えるにも「あれはいい経験だった」と笑って振り返る日がくるといいですね。

A3 / 森達也

オウム真理教の話。

ただし、オウムの異常性を描く、とかではなく、主にはオウム関連裁判の話。

異端審問のような様相を呈した裁判に疑問を投げかけ、背後にある社会病理について論じている。

一方でオウムそのものについては、個々の被告や信者たちは基本的に善良であったとの前提のもとに、

核なき集団の暴走、というような説を提唱している。

 

まず、思った以上に異端審問チックな(ように見える)裁判の経緯に驚いた。

理由が薬物かどうかは憶測に過ぎないとしても、

「麻原は明らかに正常な精神状態にないから、治療の後に裁判を再開すべきでは?」

という意見は正当なものに思える。(反論も読むべきなんだろうが)

事実上の期限くらいは設けるべきだろうけども。

 

ちなみに、筆者が「犯行当時の責任能力」を問題にして「いない」ことだけは強調しておくべきかと思う。

つまり、上記の主張は麻原を無罪に帰するものではない。

 

総じて、オウム真理教そのものについては比較的説得力を感じた。

盲目(詐病か否かはここでは議論しない)で、言葉で周囲を惑わすところのある麻原と、

被害妄想のようなものを競って麻原に吹き込む信者の相互作用により、

危険な集団へと変貌していくオウム。

そして、一人の信者の事故死が最後の一押しとなる・・・

みたいな感じだったと思う。事実はどうあれ興味深かった。

 

ただし、一連の事件が社会に与えた影響については、過大評価していると感じる。

私は事件当時は小学生、前後の変化を肌で感じていないからかもしれないけど。

少なくとも、司法制度絡みの「一度の(異端審問的な)例外を許せば必ずそれは広がっていく」という論や、

事件を契機に日本社会は非寛容の方向に加速していったという論には、

私は同意できない。

 

むしろ従来からある日本文化の一面が、情報化社会において増幅されることで、

非寛容や自己責任論に強く出ているのではないかと思う。

ただしこの本とは関係ないことなので、それはまたの機会に。

近代日本の企業者と経営組織 / 安岡重明

ものごとは多面的なんだなあ。と思いました。

 

例えば、近江商人。文字通り近江あたりにルーツを持つ商人のことで、商才のある人が多かった。

伊庭貞剛(第二代住友総理事)は、西川吉輔(国学者平田篤胤没後の門人)の薫陶をうけ、

近江商人は武士の魂(=利益追求が至上でない)と開拓者魂を持たねばならぬと考え、

大阪商業高校の校長を無給で務めるなど積極的な社会活動を行った。

 

一方で、江戸時代からの近江商人システムには近代化にあたって問題も多かった。

合議制による共同経営(大事業における資金調達、主人や「支店長」の専横抑止)と、

他国の店舗での近江人の起用(遠隔地における経営の信頼性向上)により、

多店舗化・多業種化しつつ家業の永続性を維持していた。

家と事業が一体化している間は合理的だが、近代化を考えるなら本拠地・家業の限定は枷でしかない。

現在の伊藤忠商事などは、早くに雇用形態の転換などによって近代化し、事業拡大に適応していった。

 

現在、社外取締役の増加などによる経営の透明性確保が喫緊の課題になっている、と言っている人もいる。

経営の合理化自体はたぶん本当に必要なんだろう。

ただ、結局何が目的で何をするべきなの?という視点があってもいいのかなーなんて、素人ながらに思ったりする。

ありていに言うと、増やせばいいというもんでもないんだろうなーって。

輿論と世論―日本的民意の系譜学 / 佐藤 卓己

輿論public opinionと世論popular sentimentsは本来全く違うもの。

前者がよろん、後者がせろんと読まれていたのに、

字の制限で前者が消滅し、結果として世論=よろんと読むようになった。

 

輿論=冷静な意見と世論=感情的な気分の区別が明確にされなくなったことが、

移り気な「ヨロン」の暴走につながったのではないか?

翻って、今こそ両者を分けて書くことから始めるべきなのではないか?

 

というようなお話でした。

 

実際には言語論というより、メディア論としての側面が強い。

例えば、ショー的政治の先駆者としての中曽根康弘

(1985/1/22 第九回自民党全国研修会より)
「政治には感激が必要だ。国民と一緒に「政治目標」をご本尊にしたお神輿を担いで、一緒に汗を流してやるこの感激の分かち合い。これが政治なのだと私は思っている。そういう政治こそがテンポとリズムの合った政治である。」
で、お神輿=輿論、テンポとリズム=世論だと筆者は説明している。

 

個人的には、言葉の使い方そのものが大きな意味を持つかは疑問に思っている。

ただ、本書中に

「世論が「ヨロン」である限り、世論の暴走、あるいはブレーキを欠いた民主主義ーポピュリズムと呼び換えてもよいーを正しく批判する枠組みを私たちは持てないのである。」

とあるように、

冷静な議論と感情論を意識的に分けて考えようとすることは大切だろう。

 

筆者も言うように、実際には理性と感情は不可分だとしても、

この考えは理性か?感情か?と問いかける姿勢こそ、良識を育てるのではないだろうか。

方法序説 / デカルト

科学に携わる者、一度は読んでおくべし。…と聞いてからだいぶ経ちました。

今がチャンスだと思って読んでみました。

固定観念はとりあえず全て捨て去って大事なものだけ残そうとか、簡単に言うねえ。

 

「われ思う、故にわれあり」

とは、非常に有名なフレーズ。有名すぎて、一人歩きしているかもしれない。

これは以下のような論法を説明するもの(だと思う)。

 

この世の全てが偽りだと考えてみる。

しかし、そう考えてみたところで、「今私が「全てが偽りだ」と思っていること」は否定しようがない。

ということは、「私」の中には真なるものが存在する。

 

ちなみに、この後

「不完全な私の中に真なるものが存在する。一方、神は全てが完全なる存在であり、神を分割することはできない。不完全な私の中に最初から真なるものがあったなら、その性質上他のすべての真なるものを取り出せるはずだが、実際にはそうではない。よって真なるものは神の恩寵であり、神は存在する」

みたいなロジックが続きます。

 

それはさておき、この本のより面白いところはデカルトの学問に対する姿勢だと思う。

 

まず、学問を学ぶにあたる、行動指針。即ち、

①明証的に真ではない全てを真とは認めない。つまり、厳密であること。

②問題を必要なだけ細かく分割すること。還元主義、とはちょっと違うのかな?

③単純から複雑へ、順を追って考えること。

④見落としがないと確信できるよう、しっかり対象を見ること。

耳が痛いですね。言うは易く行うは難し。頑張ります。

 

次に、学問追究の前に、見聞を広めた際の行動指針。

①法と信仰とを守り、極端な意見に走らないこと。

②中途半端にブレないこと。例えば、耳を傾けると決めた意見は最後まで聞く。

③どうにもならないことではなく、己に打ち勝つよう努めること。

④①-③を基に、最良だと思える仕事を選ぶこと。

例えば、世界の秩序を変えよう!というのが悪いことだとは思わないけど、こと見聞を広めようとするなら、どれも大事かと思います。

就活の時とか、役に立つかも?

 

偉大な哲学者の考えていたことが、(気のせいかもしれないが)少しだけ分かったような気にさせられる一冊でした。

孤独の愉しみ方―森の生活者ソローの叡智 / ヘンリー・ディヴィッド・ソロー

「孤独は、最も付き合いやすい友達である。それなのに、孤独はたいてい嫌われる。自分の孤独に手を差し伸べよう。」

 

本書は、150年くらい?前に、森の中でほぼ自給自足・限られた付き合いの中だけで生活してたという著者の言葉をまとめたもの、らしいです。

 

究極のぼっちですね。

 

労働は自分が食うぶんだけであとは思索にあてればいいとか、ニュースは原則を知ってれば"new"である必要はないとか。

分からなくはないけど、なかなかできないよねー。

 

でも、

Thou shouldst eat to live; not live to eat.

(生きるために食べよ。食べるために生きるな。)

なんて言葉もあるように、結局何が自分にとって大事なの?っていうのは常に考えないといけませんね。

 

まさにそういう価値観みたいなとこで悩んで、半ぼっち化しているアルタイルには沁みる本でした。