「民主主義」に関する政治素人の所感

予告通り、本投稿では最近の政治的動向について感想を述べたいと思います。

できるだけ客観的にと心がけていますが、素人の感想なので話半分程度に。

 

投稿にあたり、

現代民主主義における政党の社会学 / ロベルト・ミヘルス

自由からの逃走 / エーリッヒ・フロム [著] ; 日高六郎訳

を参考にしました。

 

まず参考図書について簡単に補足。

現代民主主義における政党の社会学

選出された指導者は、その選出が民主的な手続きにしたがっておこなわれたということから、自分を大衆意志の表現とみなし、そのようなものとして自分の意志への服従を要求できる正当な権利を世襲的指導者よりもずっと多くもっている。

 

純粋に民主主義的で、寡頭制的傾向のない集団など存在しない

政党を主な分析対象にしていますが、これが本著における筆者の主な主張だと思います。

 

例えば上にあるように、間接民主主義における強力な代表の選出の必要性は必然的にその代表による支配を生む。かといって、一定以上の大規模集団における直接民主制は現実的ではない。

また、組織が大きくなるほど運営における官僚制度の必要性が増すし、

リーダーに演説の能力や組織運営における器用さが求められることから、職業的指導者が発達する。

そして、「民衆の代表」としてのリーダーの性質が薄れていく(特に、社会主義の支持母体たる労働者からは程遠い存在になる)。

などなど。

 

元々社会主義主義に傾倒していたが、非民主主義的な党の現状に失望して批判に回ったという筆者の経歴から、

過度に悲観的である感はなきにしもあらずですが、お勧めの一冊です。

特に、こんな時代では。

 

自由からの逃走

『中世末期以降のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、個人の完全な解放史である…多くの点で個人は成長し、精神的にも感情的にも発達し、かつてなかったほど文化的所産に参加している。しかし他面「…からの自由」と「…への自由」とのズレもまた拡大した。どのような絆からも自由であるということと、自由や個性を積極的に実現する可能性をもっていないということとのズレの結果、ヨーロッパでは、自由から新しい絆への、あるいはすくなくとも完全な無関心への、恐るべき逃走が起った。』

初版発行が1941年。当時のナチスドイツの隆盛を念頭に、「自由になる」ことの意義と難しさについて、歴史的経緯を絡めながら述べている。

手元に資料がないので、上の文を参考に簡潔に述べます。

 

まず、中世以降の「…からの自由」とは、資本主義の発達に伴い、階級制度など従来の「絆」から解放されたこと。

次に、「…への自由」とは、目的そのものとしての自由。

 

これを踏まえて引用文を私の言葉と解釈で言い換えると、

「既得権たる○○を打倒し、行き詰った現状から自由になるのだ!」という自由の形は、

現代の資本主義の発達に伴い実現されてきた。

が同時に、「なにものにも囚われず、独り自由に立つこと」は孤独への恐怖を引き起こし、結果として新たな支配者を求める潮流(=ファシズム)が生まれた。

ということだと思います、たぶん。

 ルターの支配への憧れと資本主義の奇妙な関係、思想としてのナチズムの「大いなるもの」への傾倒などその他盛りだくさんの書ですが、話がそれるのでこの辺で。

 

まとめ:民主主義とポピュリズム

これらの書を踏まえて、最近の政治的トレンドについて思うところを述べたいと思います。

私は政治については素人です。正確な分析なんて望むべくもない。

でも、自分なりに世界の見方をある程度定めて、行動指針を立てることはできると思う。

本来読むべきデータサイエンスなんかの書籍をほっぽり出して政治や経済の本を読んでたのは、これが目的でした。

「なぜそうなっているのか?で、どうすべきなのか?」

少なくとも、自分の「思うところ」を定めてから現実に向き合いたかった。

今後はなかなか時間もとれないだろうから。

 

さて、思うところ。

①歴史は繰り返す ~諸行無常の響きあり~

まず、ポピュリズムは「民主主義の勝利」ではないと思います。

広がる貧富の差にあえぐ人々、綺麗事ではない何かを求める人々の声が反映されているのは間違いない。

解くべき問題は今や正しく設定されたのだろう。

 

でも書籍等で見る限り、歴史上のうねりではあったとしても、前例を逸脱するものではないと思います。

全く同じことが起きるのではなくとも、歴史は繰り返す。

 

②現状の打破 ~民主主義 v.s. 資本主義~

一方で、

「欧米型資本主義には限界がある、パラダイムシフトが起きるかもしれない」

という風潮そのものは悪いことばかりでもないでしょう。

 

外野としてできるのは、表面上のextremismに惑わされないこと。

トランプ政権が(主に軍事の絡む)外交的には比較的現実主義路線であることのように、

言っていることとやっていることの違いには冷静であること。

 

次に、外野も内野も「ではどうすべきか」を考え続けること。

現実とのすり合わせも大事だろうし、あえて理想論を押し通すことも大事でしょう。

みんなの智恵を合わせれば、案外「みんなで貧乏になる」以外の選択肢だって見つかるかもしれない。

 

経済的な部分はともかく、ポピュリズムファシズムの再来かと言われると、それはそれで違うんじゃないかと思います。

 

③今できること ~非欧米圏のアイデンティティ

 

「自由を求め現状を打破してきた闘争の歴史」

 

…この感覚は多分日本人の大半にはないと思います。少なくとも私にはない。

善悪は置いといて、自由や平等を求める性向があるからこそ、

欧米で急進的勢力が発達しやすいのではないかと思います。

その発達を新たな寡頭制の誕生と見るか、自由からの逃走と見るか、それとも民主的革命と見るかはさておき。

 

翻って、「それってそんなに大事なことなの?」と一歩引いた眼で見ることができるのは非欧米圏の人間なんじゃないかと思います。

せっかくの情報化社会なんだから、欧米だけではなく、「みんな」で考えない手はない。

 

④理想の未来なんて

以上の理性的な意見(と自分では思っているもの)はさておき・・・

 

孤立主義は絶対に理想の解ではない!

 

これだけは絶対に譲るつもりはありません。自分にできることは少なくとも、何を選ばないか、何に背を向けるかぐらいは選ぶことができる。

 

私の立場で何ができるかは分からないけど、この記事に書いたことは忘れないようにしたいと思います。

ブログについて

新生活の準備でなかなか更新できませんでしたが、本は読んでるんで来週更新したいと思います。

読書のテーマとしては、「なぜ今孤立主義が流行っているのか?」というところを中心にしてきました。

次の更新で、自分なりの見方を示したいと思います。

 

…と言っておかないと忘れると思うので、取り急ぎ。

いんぐりっしゅこみゅにけーしょん

アメリカついでに、日本人がいない環境で英語について思ったこと。

 

①スピーキング

しゃべるのはやっぱり慣れてないと難しい。リーディング・ライティングに比べて語彙が減る。

 

とはいっても、元々日本語でそんなしゃべるかっていうと全くそんなことはない、

から言語が変わってもキャラは多分あまり変わってない。

パーティで全然しゃべれないのは元々である(笑)

 

ただし、専門のディスカッション能力はちょっと錆びつきすぎだなあ。

ポイントは伝わったと思うし、フィールドを変えるからまあいいんだけど。

感触が人によって違うのは多分日本人相手でも同じだな。

 

②リスニング

行きの機長(=スピードへの適応前。帰りは余裕)以外はほぼ完ぺきに聴き取れた。

仮に向こうの大学院の授業を取っても問題なくやっていけるだろう。

まあインタラクティブなのには慣れないといかんけど。

 

ただし、プライベートで会話した人々は(多分)分かりやすく話してくれてるし、

それ以外は「共通言語」があったことに留意が必要。

chattingに普通に加われるかどうかは分からんなあ。

ミネソタより、論点の整理

ただいま私はミネソタ州ミネアポリスにいます。

色んな人と話してなるほどと思ったことをノート代わりに記録しておきたいと思います。

 

①ロボットと神経科学:行動の模倣か、内部メカニズムか?

制御工学から見た話だと思うので、分野で違うのかもしれないけれど…

組織的な行動を示すロボットで、生物に着想を得ているものの話はいくつも耳にした。

今回思ったのは、outputの再現に力を入れているということ。

で、そのためにはどんなアルゴリズムが適しているか?というのが基本思想なのではないだろうか。

別の原理で全く区別できないoutputが得られた時に、果たして両者は別のものと言えるか、という哲学的問題はさておき、

コミュニケーションの際には意識しておくべきかと思った。

 

②学習と基礎神経科学:hard-wiredかどうか?

今「学習」と呼ばれているものは、基本的にbottom-upに重きが置かれている。

ハードウェアのスペックの問題でできなかったものが、技術の進歩で圧倒的な結果を残しました!

という流れなのだから当たり前だが、シンプルな系はよりhard-wiredである傾向があることは念頭に置くべきだろう。

機械が解くべき(解いている)問題が「複雑」かどうかもよく分からないし…

特にsparse codingが嗅覚系全般に見られる(らしい)ことを考えると、実用的な範囲でヒトを目標にする理由はあまりないのかもしれない。

視覚の場合はマウスとかだろうか。

本来top-downで相当達成されているものを、無理やりbottom-upで再現しているのかもしれない。

学習という言葉の定義の違いも、その辺にポイントがあるのかも?

シンプルな系の使い道は基本原理にあると思ってたけど、関係が逆転して個別アルゴリズムになっていくのかも。

トリビュート 百人一首 / 幻戯書房 編

百人一首を現代の歌人?が、一人につき三・四首ずつ解釈を加えて現代風にアレンジするという試み。

 

さて、この手のものに長々と解釈を加えるのも無粋だろう。

素人の恐れ多い試みであることを承知で、

①元の歌 ②本の中の解釈 ③私の返答

の順で、印象に残ったものとその感想を並べてみたいと思う。

 

①わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(喜撰法師

②(挫折とか失意とかではないのにな)吾妻と猫とふるさとに住む(高島裕)

③人の目にもったいなしと映れども己の道と今思うなり

 

①花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に(小野小町

②色もなき情報降れる世に咲きて移ろうものの息吹きなつかし(佐伯裕子)

③姿なきものに見出す色もあり情報時代の君は画面に

 

①君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ(光孝天皇

⓶何もない一日でしたと書き送る添付画像に屋根のあはゆき(石川美南)

③想いをば言わぬが華と思えども言わずにおれぬ人の性かな

 

①小倉山峰の紅葉葉心あらばいまひとたびのみゆき待ちなむ(貞信公)

②小倉山凍った紅葉葉あざやかに(みゆきまたなむ)こころはこころ(加藤治郎

③8Kのテレビに映る小倉山凍りし紅葉今蘇る

 

①誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならくに(藤原興風

②暮れ暮れの公園に人のかげもなく高砂の松は風に吹かるる(沖ななも

③老いたりて松のごとくとなりけるは去りぬべき時風と共に

 

①風をいたみ岩打つ波のおのれのみ砕けてものを思ふころかな(源重之

②うつされたる口癖ひとつふたつみち満つる月夜のいつより薫る(光森裕樹)

③にじみ出る秘めたる想いありけるは君に届けと思いにけるや

 

①君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝

②逢ふことをただ願ひゐし日の遠く今は生きたし病むといへども

③長寿国もはや斜陽と人は言う我は信ずる日は東にと

 

半分で挫折したんで、後は誰か頼んだ。

 

 

 

 

面白き 人と眺めて いたけれど いつしか想いに 移りにけるな(詠み人知らず)

安全。でも、安心できない…-信頼をめぐる心理学 / 中谷内一也

リスクマネジメントの話。

原発…は実際大事故が起きたから特殊かもしれないけど、

例えば食品安全(遺伝子組み換え食品とか)なんかで、

「頭では安全だろうと分かっていても、心情的に安心できない」のはなぜか?という話。

 

ざっくり言うと、

リスク管理側に対する、専門家としての能力への信頼

リスク管理側が真面目に問題に取り組んでいるという姿勢への信頼

そして、

リスク管理側が自分と同じ「価値観」を共有していると感じられること

(ありていにいうと、管理側が「国民目線に立っている」と感じられること)

が必要だとのこと。

 

で、自分が詳しくない、もしくは関心の低い分野は①や②、

ある程度知識があって関心の高い分野は③が重要である「ことが多い」ようだ。

ただし、単独の要因で決まるわけではなく、これら3つのバランスが重要らしい。

 

正直、最初は③がいまいちピンとこなかった。

「国民目線とか言ってる暇があったら、建設的な議論の一つも進めてくれ」と思うからだ。

 

でも冷静に考えると、それは私がそういう価値観を持った人間だからだ、と思う。

私はリスク管理側の、尊敬できる(と感じた)人物と何人か話したことがある。

冷静で、頭の回転が速く、真面目。こんな人間になりたいと思ったし、リスク管理と言われると彼らの顔が思い浮かぶ。

 

つまり、「国民目線より正しい議論を進めてほしいという私目線に立ってくれる人々」を信頼しているのだろう。

 

人間って難しいね。

外交〈下〉 / ヘンリー・A. キッシンジャー

先に言っとくと、だいぶ飛ばしました。

めちゃくちゃ長い上に他の本が溜まってるので。

 

後編は第二次大戦後から冷戦終結までなので、主役はほぼアメリカ(と、対抗勢力としての共産圏)です。

まあ自分が外交を仕切ってた時代もあり、書きやすいというのもあるでしょうが。

 

歴史のIFって気になりますよね。

上巻でいえば、ヒトラースターリンのような外交上の現実主義者で、独ソ同盟による欧州の支配を企んでいたら?

下巻でいえば、スターリンの後継者たち(特にフルシチョフ)が拡大主義に走らず、

元々の領土内での共産主義の繁栄を目指していたら?

なんか怖い方向の想像ばっかで申し訳ない(笑)

 

さて、後編で目立ったのはアメリカの二面性です。

その例外主義に固有の、二つの誘惑の間でバランスをとること…全ての悪を修正し、すべての混乱を収拾…逆に内にこもろうとする潜在的な傾向…

とあるように、ベトナムで大打撃(知らなかったけどテト攻勢ハノイ側の大敗北だったらしく、あそこで勝負を賭けてれば…とか筆者は言ってますが)

を被った「全世界の正義」としての例外主義と、

モンロー主義に代表されるような「外界のことに興味のない」孤立主義

ずっと両者の間で行き来してきたと考えれば、一時のことで神経質になりすぎるのもよくないのかもしれません。

冷戦構造が崩壊して、日本もずっと追従することはないだろう(ただし、日本式は分からないレベルで少しずつ物事を進めることだ)とも言ってますけどね。

 

もう一つは、核による抑止について。

終末的な大戦による脅しの信頼性とは、相手の挑戦に対し最後のぎりぎりまで反応すること…向こう見ずの示威である。しかし、民主的大衆が求め、受容する権利のあるものは、穏健で合理的に計算された柔軟な外交…極限まで赴く気があるのだろうかと疑う原因となるのである。

抑止とは、実際に「起こらなかった」ことから否定的な形でのみ検証できるだけ…怒らなかったことを示すことは不可能…評価することが特に難しくなった。おそらく、抑止とは不必要でさえあったのだ…思考不可能であることから…実証不可能な軍備拡張理論まで、ありとあらゆるものが現れた。

多くは語りませんが、昔から思ってたことを割と言語化してくれたような気がします。

 

あと、筆者はやっぱりパワーポリティーク推しだったんですね。

正直、私もそれが一番理解しやすいです。良し悪しは別にして。