いんぐりっしゅこみゅにけーしょん
アメリカついでに、日本人がいない環境で英語について思ったこと。
①スピーキング
しゃべるのはやっぱり慣れてないと難しい。リーディング・ライティングに比べて語彙が減る。
とはいっても、元々日本語でそんなしゃべるかっていうと全くそんなことはない、
から言語が変わってもキャラは多分あまり変わってない。
パーティで全然しゃべれないのは元々である(笑)
ただし、専門のディスカッション能力はちょっと錆びつきすぎだなあ。
ポイントは伝わったと思うし、フィールドを変えるからまあいいんだけど。
感触が人によって違うのは多分日本人相手でも同じだな。
②リスニング
行きの機長(=スピードへの適応前。帰りは余裕)以外はほぼ完ぺきに聴き取れた。
仮に向こうの大学院の授業を取っても問題なくやっていけるだろう。
まあインタラクティブなのには慣れないといかんけど。
ただし、プライベートで会話した人々は(多分)分かりやすく話してくれてるし、
それ以外は「共通言語」があったことに留意が必要。
chattingに普通に加われるかどうかは分からんなあ。
ミネソタより、論点の整理
色んな人と話してなるほどと思ったことをノート代わりに記録しておきたいと思います。
①ロボットと神経科学:行動の模倣か、内部メカニズムか?
制御工学から見た話だと思うので、分野で違うのかもしれないけれど…
組織的な行動を示すロボットで、生物に着想を得ているものの話はいくつも耳にした。
今回思ったのは、outputの再現に力を入れているということ。
で、そのためにはどんなアルゴリズムが適しているか?というのが基本思想なのではないだろうか。
別の原理で全く区別できないoutputが得られた時に、果たして両者は別のものと言えるか、という哲学的問題はさておき、
コミュニケーションの際には意識しておくべきかと思った。
②学習と基礎神経科学:hard-wiredかどうか?
今「学習」と呼ばれているものは、基本的にbottom-upに重きが置かれている。
ハードウェアのスペックの問題でできなかったものが、技術の進歩で圧倒的な結果を残しました!
という流れなのだから当たり前だが、シンプルな系はよりhard-wiredである傾向があることは念頭に置くべきだろう。
機械が解くべき(解いている)問題が「複雑」かどうかもよく分からないし…
特にsparse codingが嗅覚系全般に見られる(らしい)ことを考えると、実用的な範囲でヒトを目標にする理由はあまりないのかもしれない。
視覚の場合はマウスとかだろうか。
本来top-downで相当達成されているものを、無理やりbottom-upで再現しているのかもしれない。
学習という言葉の定義の違いも、その辺にポイントがあるのかも?
シンプルな系の使い道は基本原理にあると思ってたけど、関係が逆転して個別アルゴリズムになっていくのかも。
トリビュート 百人一首 / 幻戯書房 編
百人一首を現代の歌人?が、一人につき三・四首ずつ解釈を加えて現代風にアレンジするという試み。
さて、この手のものに長々と解釈を加えるのも無粋だろう。
素人の恐れ多い試みであることを承知で、
①元の歌 ②本の中の解釈 ③私の返答
の順で、印象に残ったものとその感想を並べてみたいと思う。
①わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(喜撰法師)
②(挫折とか失意とかではないのにな)吾妻と猫とふるさとに住む(高島裕)
③人の目にもったいなしと映れども己の道と今思うなり
①花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に(小野小町)
②色もなき情報降れる世に咲きて移ろうものの息吹きなつかし(佐伯裕子)
③姿なきものに見出す色もあり情報時代の君は画面に
①君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ(光孝天皇)
⓶何もない一日でしたと書き送る添付画像に屋根のあはゆき(石川美南)
③想いをば言わぬが華と思えども言わずにおれぬ人の性かな
①小倉山峰の紅葉葉心あらばいまひとたびのみゆき待ちなむ(貞信公)
②小倉山凍った紅葉葉あざやかに(みゆきまたなむ)こころはこころ(加藤治郎)
③8Kのテレビに映る小倉山凍りし紅葉今蘇る
②暮れ暮れの公園に人のかげもなく高砂の松は風に吹かるる(沖ななも)
③老いたりて松のごとくとなりけるは去りぬべき時風と共に
①風をいたみ岩打つ波のおのれのみ砕けてものを思ふころかな(源重之)
②うつされたる口癖ひとつふたつみち満つる月夜のいつより薫る(光森裕樹)
③にじみ出る秘めたる想いありけるは君に届けと思いにけるや
①君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝)
②逢ふことをただ願ひゐし日の遠く今は生きたし病むといへども
③長寿国もはや斜陽と人は言う我は信ずる日は東にと
半分で挫折したんで、後は誰か頼んだ。
面白き 人と眺めて いたけれど いつしか想いに 移りにけるな(詠み人知らず)
安全。でも、安心できない…-信頼をめぐる心理学 / 中谷内一也
リスクマネジメントの話。
原発…は実際大事故が起きたから特殊かもしれないけど、
例えば食品安全(遺伝子組み換え食品とか)なんかで、
「頭では安全だろうと分かっていても、心情的に安心できない」のはなぜか?という話。
ざっくり言うと、
①リスク管理側に対する、専門家としての能力への信頼
②リスク管理側が真面目に問題に取り組んでいるという姿勢への信頼
そして、
③リスク管理側が自分と同じ「価値観」を共有していると感じられること
(ありていにいうと、管理側が「国民目線に立っている」と感じられること)
が必要だとのこと。
で、自分が詳しくない、もしくは関心の低い分野は①や②、
ある程度知識があって関心の高い分野は③が重要である「ことが多い」ようだ。
ただし、単独の要因で決まるわけではなく、これら3つのバランスが重要らしい。
正直、最初は③がいまいちピンとこなかった。
「国民目線とか言ってる暇があったら、建設的な議論の一つも進めてくれ」と思うからだ。
でも冷静に考えると、それは私がそういう価値観を持った人間だからだ、と思う。
私はリスク管理側の、尊敬できる(と感じた)人物と何人か話したことがある。
冷静で、頭の回転が速く、真面目。こんな人間になりたいと思ったし、リスク管理と言われると彼らの顔が思い浮かぶ。
つまり、「国民目線より正しい議論を進めてほしいという私目線に立ってくれる人々」を信頼しているのだろう。
人間って難しいね。
外交〈下〉 / ヘンリー・A. キッシンジャー
先に言っとくと、だいぶ飛ばしました。
めちゃくちゃ長い上に他の本が溜まってるので。
後編は第二次大戦後から冷戦終結までなので、主役はほぼアメリカ(と、対抗勢力としての共産圏)です。
まあ自分が外交を仕切ってた時代もあり、書きやすいというのもあるでしょうが。
歴史のIFって気になりますよね。
上巻でいえば、ヒトラーがスターリンのような外交上の現実主義者で、独ソ同盟による欧州の支配を企んでいたら?
下巻でいえば、スターリンの後継者たち(特にフルシチョフ)が拡大主義に走らず、
元々の領土内での共産主義の繁栄を目指していたら?
なんか怖い方向の想像ばっかで申し訳ない(笑)
さて、後編で目立ったのはアメリカの二面性です。
『その例外主義に固有の、二つの誘惑の間でバランスをとること…全ての悪を修正し、すべての混乱を収拾…逆に内にこもろうとする潜在的な傾向…』
とあるように、ベトナムで大打撃(知らなかったけどテト攻勢はハノイ側の大敗北だったらしく、あそこで勝負を賭けてれば…とか筆者は言ってますが)
を被った「全世界の正義」としての例外主義と、
モンロー主義に代表されるような「外界のことに興味のない」孤立主義。
ずっと両者の間で行き来してきたと考えれば、一時のことで神経質になりすぎるのもよくないのかもしれません。
冷戦構造が崩壊して、日本もずっと追従することはないだろう(ただし、日本式は分からないレベルで少しずつ物事を進めることだ)とも言ってますけどね。
もう一つは、核による抑止について。
『終末的な大戦による脅しの信頼性とは、相手の挑戦に対し最後のぎりぎりまで反応すること…向こう見ずの示威である。しかし、民主的大衆が求め、受容する権利のあるものは、穏健で合理的に計算された柔軟な外交…極限まで赴く気があるのだろうかと疑う原因となるのである。』
『抑止とは、実際に「起こらなかった」ことから否定的な形でのみ検証できるだけ…怒らなかったことを示すことは不可能…評価することが特に難しくなった。おそらく、抑止とは不必要でさえあったのだ…思考不可能であることから…実証不可能な軍備拡張理論まで、ありとあらゆるものが現れた。』
多くは語りませんが、昔から思ってたことを割と言語化してくれたような気がします。
あと、筆者はやっぱりパワーポリティーク推しだったんですね。
正直、私もそれが一番理解しやすいです。良し悪しは別にして。
暗夜行路 / 志賀直哉
『或る処で諦めることで平安を得たくない。諦めず、捨てず、何時までも追求し、其上で本統の平安と満足とを得たい。本統に不死の仕事を仕た人には死はない。』
著者唯一の長編小説。悩み多き人生を送る主人公が、大自然の中で「許す心」を得るまでを描く。
前編を読んでた頃は(歪んだ)母への愛がテーマかと思ってたので、後半の展開には引き込まれました。
(でも、後書きでは「絵巻物風」とか言ってたけど、あの人格変化が短期間で起きるのは時系列に頓着してなかっただけなんじゃないかなあ。)
さて、感想としては主人公「時任謙作」にだけ触れたいと思います。
繰り返しになるけど、まず感じたのは歪んだ愛。まあこれは出自が絡んでいるということでしょう。
次に、感情の波の激しさと、理性で以てそれを御したいとする本人の苦悩。
半分以上は本人のあずかり知らぬ処で余計なことをする周囲の人間のせいだけど・・・
そして、小説家としての空想癖や、大きな物事について考える傾向。
冒頭の一節は、前編からこれに関連する部分を切り取ったものです。
主人公にフォーカスしたのは理由があります。
それは、私自身との共通項。
歪んだ愛・・・はともかくとして(笑)、
現実世界でどうこうということは今は多分ない(現実とリンクしたネットでは?黙秘権を行使します)けれど、
時に自分の手を離れて飛んでゆくかのような感情。
そして、その価値を否定する合理主義的気質。
大きなものになりたい、そして大きなものについて考えたいという欲求。
これについては、一つ前のエントリもそうですが、このブログをご覧の方には周知の事実かと思います。笑
それ「だけ」に集中しきれていないところもそうかな?
さて、では共通項を感じる者として、同様な心境を得たいか?
この質問には、必ずしもイエスとは言い切れない。
寛容の精神は大事だと思うけれど、永遠を感じたら歩みを止めてしまう気もする。
今のところは、宗教よりも科学に答えを求めたいと思います。