孤独と不安のレッスン / 鴻上尚史 …を読んで。「ぼっちとは?」

一度、ネットとかも断って本当の孤独を体感してみよう。それは案外悪いものではないはず。

そして、孤独になるという不安から解放されよう。そのためには、自意識とではなく目の前の他人と向き合おう。

孤独を受け入れつつ、あなたにとって本当に価値のある「他者」、受け入れがたいけど受け入れないといけない、分かりたいけど分からない人と共に生きよう。

 

みたいな話だと思います。

全体としては割とうなずける内容ではあったけど、それはそれとして疑問に思ったことをいくつか。

 

①一人暮らしって寂しいもの?

独りの寂しさを経験してこそ人とのかかわり方を考えるようにもなるものだから、私は若い人に一人暮らしを経験することを勧めている…という一節がありました。

ところで、まだ三か月だから、というのは当然あるだろうけど、私は一人暮らしを寂しいと思ったことは多分一度もありません。

でも、家政婦さんはほしい。特に、出かけてる間にGを駆除してくれる人。

まあネットにアクセスしている状態は真の孤独ではない的なことを仰っているので、

「お前は本当の孤独を知らない…」とか言われたらそうですかとしか言えませんが。

そうは言っても、machine learningにせよprogrammingにせよ、情報を得るにはネットが手っ取り早いんだよなあ…

本当に価値の高い情報は少ないのかもしれないけどね。

 

これに関連して、

②ひまつぶしとかではなく、能動的に情報を得る行為は孤独を紛らわせていることになるのか?

読んで字のごとく。「昼飯食ってる間にスマホいじってるのは真の孤独ではない」は分かります。

これは自分もよくやるから、真に一人で生きていくというのはなかなか現実的ではないんだろう。

でもそれはそれとして、情報、もっと表現を対人関係に寄せるなら意見を得ようとする行為は、孤独を紛らわせることと関係あるのだろうか。

自分は暇つぶしのネットは人じゃなく(普段接しない類の)意見を知るためにやってることが多い…と思っているので、

その辺の違いがやや気になりました。

 

③他人との距離に頓着すべきなのだろうか?

(ネットのような)薄い関係の「他人」ではなく、他人との距離を見極め、自分にとって大切な「他者」を見つけよう。できれば二人。

これは、本書の核になる主張…だと思います。

これ自体は大いに賛同します。心当たりがある。

でもそれって、論理的じゃないかもしれないけど、『縁』で見つかるものかなと思っています。

心理的距離を測ることから見つかるものもあるのかもしれないけど、距離に例えるならば、

普遍的に個人個人に最適な距離というのがあって、それがたまたま一致した相手と「他者」になるのかなと。

特に、「他者候補」を沢山見つけようというのでないのであれば。

 

オチはなし。今日はこの辺で。